とらドラ!はハッピーエンドを迎えることができるのか?

とらドラ!〈9〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈9〉 (電撃文庫)

※この記事は9巻読了時点で書かれました。まさかあんなエンディングだったとは…




アニメ→コミック→原作とポロロッカした筆者が近頃、皆様も気づかれたとらドラ!の寒々しさと病理について、淡々と記す書き込み。常に未完成で、本文も含めてリライトし続けます。ネタバレあり。



さて、原作は角川から9巻まで刊行中で、近々最終巻の10巻が出て完結する「いわゆる」ラノベといわれている小説。


主人公の「目つきが悪いが心優しい高校生竜児」と「ドジで小柄で凶暴な手乗りタイガーこと大河」と「超マイペースな天然キャラ・実乃梨」を取り巻く学園ラブコメ……と一般的には言われている。

しかし、すでに多くの読者諸兄が自身のブログ等で考察を書かれているように、この作品は商業的に「学園ラブコメ」のふりをしているだけで、別物である。
”学園ラブコメラノベじゃないよ”というサインは作中でも異常なほどに、しかも確信犯的に示されており(リンク先参照)、その信号が読み取れなければ、または読み取らなければ「学園ラブコメラノベ」で終わることができる作りになっているし、それは商業的(編集サイド)には帰結させたい終着点であろうが、本質的テーマは別にあると言ってもよいだろう。

しかし、信号を読み取ってしまった、もしくは読み取らざるを得なかった読者からすれば、この異質な小説をの最終巻を発売を前にして「とらドラ!とは何なのか?何だったのか?」という自分の「とらドラ!論」を書かざるを得ない状況を生み出している。

代表的な意見としては「現代の人間関係の希薄化と共同体の崩壊を象徴した物語」だとか「自分ひとりで解決して乗り越えざるを得ない哀れな子供たちの物語」とか「21世紀の今更アダルトチルドレン論」などとか。

たかがラノベに何故、そんな分析がなされるのだろうか。

漫画のキャラクターというのは、普通、「こんなキャラが現実にいたらどうよ?」などとは決して語られない(はず)。
うる星やつら諸星あたるが現実にいたらxx病だ、とか、涼宮ハルヒがもし本当に身近にいたらどうよ、なんて考えるやつはいない。漫画は漫画。別物として完全に認識した上での語るであれば問題ないが、作り物のお話に登場する人物の病理を現実に置き換えて考えるなんてありえないし、意味がない。

しかし、とらドラ!に関しては、一部の読者たちは物語の登場人物の大河たちに対して現実に近い嫌悪感を抱き、現実の世界ににあるような「境界性人格障害」や「演技性人格障害」などといった精神疾患の可能性を考えている。


何故か?


それはこの作者が主要キャラの人格等を意図的に破壊させ、その崩壊と引き替えに物語を進行させるスタンスだからだ。そういう芸風といってもいい。当然ながらこの芸風は小説読了後のカタルシスを思い切り削り取ってしまう。後に残るものは不安感と喪失感だけだ。


当然ながら角川のラノベでは対オタク商売において読了後のカタルシスが何よりも重要である。
時代劇なら勧善懲悪、エロ小説ならメインヒロインとの肉体関係描写、そしてジュヴナイル小説ならば主人公たちの成長。これらがきっちりと描かれることで、読者はカタルシスを得る。

本作でも当初は積極的に盛り込まれていた。

この世界の誰一人、見たことがないものがある。それは優しくて、とても甘い。
だけどいつかは、誰かが見つける。手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる。
そういうふうになっている。(一部略)


物語の最初に挿入され、断定形で書かれたこの一文は、大河のラブレター入れ間違え事件から始まるとらドラ!の物語のハッピーエンドを予感させている。だからこの話は大団円のはずだと信じている読者がいまでも大半だろう。筆者も最初はそう思っていた。変化してきたのは5巻ぐらいだろうか?

笑うたびに走る痛みも、このつらい夜を乗り切れれば、多分、きっと、本当に―やがて大丈夫になっていくと思うから。


5巻最後に挿入されたこの一文はそれまで騙し騙し織り込んできた「違和感」を露呈させている。
物語冒頭の断定形で書かれた一文と明らかに異なり、しかも気づいてみるとこれ以外にもそこかしこに挿入されている「多分、きっと…思うから。」のような推測の上に想像で書かれている一文は、読者に否が応でも物語の行く末の不安感を与え、読後のカタルシスを削り取る。意図的に挿入されてなければ編集者は無能である。

そしてこれらの文章が引き起こした読者の不安感は、6巻以降に的中する。つまり、登場人物たちは虚構の不合理性に”気づかされた”ものから作者の手によって”壊されている”からだ。(北村など不合理性の認識でなく作中イベントで壊されるキャラもいる)


一番最初に壊されたのは”会長を失ったことにより双極性障害になった北村”であり以降、”大河と竜児との選択に葛藤し自己愛性人格障害に逃げ込んだ実乃梨”、”自分だけは物語をコントロールできるとばかり偽オラクルとして動き、結局演技性人格障害を引き起こした川嶋”、そして”機能不全家庭から生まれた境界性人格障害を竜児との共依存関係で癒そうと試み失敗した大河”と続く。無論、壊れた後には新しい命題が与えられ、再構築されていくキャラもいる訳だが、残念なことに物語の中ではこれらの精神疾患を治癒させるために必要な”スーパーバイザー(元増田氏言うところのオラクル、導師、師匠)は存在しないため、その後も彼らが取る行動は不自然極まりない。(注:キャラたちが持つ人格障害は本来こんなに一面的ではない。一番目立つ部分をわかりやすく象徴的に書いただけだ)


そして主人公・竜児だけはこの崩壊(と再構築)の流れを一人客観視する立場に置かれている。これは竜児が"読者のスタンス"を託されているためなのだろうが、不合理性に気づかせてもらえず、アホの子のように北村や実乃梨、大河たちの崩壊を眺めて続けている。個人的にはこうした芸風は非常につらい。


そして作者は9巻最後の段階で物語はその世界に大河が存在することを全否定し、今まで各キャラの崩壊と引き替えにどうにか維持してきた彼らを取り巻く”虚構世界”をも崩壊させている。

よく描かれるように話が盛り上がりクライマックスで次巻に、とかではなく(いや、一般的な認識はそうなのだろうが)、自分たちを取り巻く世界が壊れていくことに耐えきれない主人公たちが足掻きつつ、結局崩れ落ちる形で次巻に続いており、これらが意図的に書かれているならば作者の技術力の高さと残酷性が読み取れる文章である。………意図的でないなら不愉快きわまりない駄文だ。


まあ、大河でさえもみの木事件やスキー合宿を経て自分たちを取り巻く虚構を壊され、他のキャラが逃避行動や演技性人格障害を起こしていることを竜児を通して”気づかされて”いたわけで、カノジョは導師がいないなりに足掻き、もがき、竜次との共依存からの脱却を計り、そして失敗している状態で、結末が『最後の最後で二人は真実の愛に気づき、死ぬまで仲良く暮らしましたとさ』なんてなる訳がないことは大半の読者も薄々気づかされているだろう。


ではこのとらドラ!、最後はどのような結末を迎えるのだろうか?


あり得る可能性の一つとして、物語の結末は読み手によってハッピーエンドなのか否かが変わってくるようなものになると思われる。

例えば、竜児と大河は共依存の関係を解かれ、互いに別の道を歩むことがいいと思い込むようなエピソードがあり、最終的には結ばれない。卒業後、主人公たちは殆ど会わないような描写さえ書かれ、それでも主人公たちはがんばって生きる、みたいな描写で締めくくられ、読者には一応のカタルシスを与えつつも結論は自分で考えろ、みたいな終わり方だ。

むしろ筆者的には、ここまで壊してあればそんな結末しかあり得ないし、『仲良く暮らしましたとさ』なんて終わりかたより遙かに難しい訳だが、逆に言えばそうした結末が書ききれれば、小説としてはたいしたものだと思われる。しかしながら、そんなんで角川サイドが許してくれるか、というと甚だ疑問ではある。
大半の『大河はツンデレ、みのりはオタク、川嶋は性悪』なんて認識でついてきた読者はそうした最終話にはついて行けるはずがなく、大きな不満となって現れるはずだ。


これは原作サイドにもいえる。アニメ版は長井監督が作者の信号を読み取っていたため、作中には不安定要素を入れまくっているが、漫画版は明らかにスタンスが異なる。
まだ原作の前半部分でもあるため元々不安定要素は少ないのだが、漫画版はそうした要素をその都度”解決”してしまっている。このため、キャラたちはみな明るくさわやかで、楽しい学園ドラマとして成立してしまっている。
漫画版の大河が魅力的なのは大河が本来持つ精神疾患的な描写が一切ないためだ。


これは「いい」「悪い」の問題でなく、漫画版の作者の意向か原作者の意向かマーケティングの都合とかでそうした方向性で成立させていると思われるため、このまま進めても原作の不安定さについて行くことは難しく、あと1〜2冊くらいで独自のハッピーエンドを迎えることになるだろう。


アニメ版と原作版は同時期に終了する。おそらく、相当なレベルで合わせてくるはずだ。終わり方はDVDの売り上げ等にも大きな影響を与えるだろう。精神疾患のキャラたちが治癒しないまま勝手気ままに自己解決し物語の結末のスタンスを読者サイドにゆだねる、という終わり方は、半歩間違えれば未消化キチガイ小説として終わってしまうほど難しい。それでもなおチャレンジしてくるだろうか?


案外、作者サイドは自分たちが仕込んだトラップのすべてに頬被りしてハッピーエンドとしてくるのかもしれない。
しかし、それもまたよし、ということだ。





参考
http://d.hatena.ne.jp/gundamF94/20090210/1234223547
http://blog.pettan.jp/archives/50550624.html
http://blog.pettan.jp/archives/50551332.html
http://blog.pettan.jp/archives/50548071.html
http://blog.goo.ne.jp/yasutaketin/e/06d79fea8dd29d93b10fa64e604caff5
http://gerenuk.crazyphoto.org/2009/01/18/138/
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090205/1233768161
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090209/1234120013
http://www.mypress.jp/v2_writers/bontane/story/?story_id=1782205
http://anond.hatelabo.jp/20090209001638
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090209/1234169785
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090210/1234212368
http://anond.hatelabo.jp/20090209001638
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%89%E3%83%89%E3%83%A9!
http://www1.atwiki.jp/toradora/
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%81%A8%E3%82%89%E3%83%89%E3%83%A9!
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1234328069/